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佐倉市に伝わる哀しい鳥人伝説

千葉県の民話で、もっとも奇怪、もっとも哀しい物語は、佐倉市に伝わる鳥人伝説ではないだろうか。

母は子を思い、子は母を思う。それは自然の姿であり、親子の絆は容易に断ち切ることはできない。もし、生まれてきた我が子が、普通の姿でなかったら、自分は、そしてあなたは、親として、どのような行動を取るべきなのか。

この物語はとても奇怪な内容です。参考文献は既に絶版しているので、全文掲載致しました。文章等も校正を加えず、原文のままとしています。

論より証拠。まずは、ご一読あれ。


白鳥に貞操を奪われた美女と鳥人の一族<佐倉市>

房総の秘められた話、奇々怪々な話
 大衆文学研究会千葉支部編著
 崙書房【第一版1983年7月10日】より引用

むかし、下総の佐倉城の城主に、綾姫という美しい娘がいた。

綾姫は鳥がすごく好きだった。とくに白鳥が好きで、一羽のオスの白鳥を飼って、いつも「五郎」と名づけて可愛がっていた。白鳥も、すっかり綾姫になつき、綾姫のことばなどをほとんどみな理解していた。

ある夏の日のことである。いつものように白鳥の五郎と一緒に、印旛沼のほとりを散歩していた綾姫は、暑いので、柳の木かげに体を横たえていた。沼を渡ってくるそよ風にさらされていると、妙に眠気がさしてきて、綾姫はついウトウトとまどろんだ。

ところが、綾姫はやがて、思わす「あッ」と声を上げて眼をさました。自分の着物の前がはだけ、腹の上に、五郎がちょこん、と乗っかっているではないか。綾姫は自分が白鳥の五郎に貞操を奪われてしまったことに気がついたのである。

「あんた、ばかなまねをしちゃだめじゃない」

さとすようにいうと、白鳥の五郎は、一声二声、コケー、コケーと鳴いて、沖へ沖へと沼のなかに泳いでいってしまった。 それっきり、どこへどうしたのか、五郎はもう二度と、綾姫のところへ戻ってこなかった。

それから一ヶ月ほどして、綾姫は妊娠していることに気がついた。三月、四月とたつと、お腹がだんだんふくらんでくるではないか。それを知った父母(佐倉城主とその奥方)は、相手はどこの誰なのだ、と尋ねた。綾姫は、白鳥に犯された、と説明したが、父母はそれを信ずるはずはなかった。

十ヶ月ほどたつと、綾姫は産気づいた。しかし、綾姫が産んだのは人間の赤ん坊ではなかった。まっ白な、美しい卵。それも四個である。どれもこれも、鶏の卵の三倍ほどの大きさであった。

綾姫はそれをどう処分したらいいかひどく迷ったが、毎夜それを抱いて寝ることにした。すると、二十日ほどたって、四個の卵はみんな割れて、なかから「半人半鳥」が生まれた。顔は人間の子供だが、全身が羽毛でおおわれていて、翼があり、足は白鳥とそっくりなのである。

これを知った綾姫の父は、綾姫に、

「そんな怪物は殺してしまいなさい」

と命じたが、みんな我が子であってみれば、可愛そうで殺してしまうわけにはいかなかった。それをいうと、綾姫は、父から勘当をいい渡された。

四人(羽)の子供をつれて、綾姫は泣く泣く佐倉城を出ていった。四人の子供を引いて下総の森のなかをあてもなくさまよっていると、親切な樵夫(きこり)に助けられ、綾姫親子は、その樵夫の家に寝泊りすることになった。四人(羽)の子供はスクスクと生長し、みんな空を飛んだり、水の中を泳いだりできるようになった。男(オス)が二人(羽)に女(メス)が二人(羽)だったので、大きくなると、兄妹ながら結婚して、二組の鳥人の夫婦が出来た。夫婦たちはさらに子を産み、三十年もすると、この森のなかに、こうした鳥人の集落ができてしまった。

このことが都に知れると、時の将軍は、部下のものに、

「このような怪物の群れを生かしておいたら、どのようになるか分からぬ。一羽残らず退治してこい!」 と厳命した。

秋のある日、一団の鉄砲隊が、下総の森に入りこんできた。隣り村に用事があって出かけていたお綾(綾姫)は、その鉄砲隊と出会ったが、それが自分たち一族を撃ち滅ぼしにきたのだと知ると、蒼ざめて、脱兎のように、集落まで帰ってきた。一族のものに、

「みんな逃げるんだ。早く、早く、空高く飛びあがるんだ。でないと、でないと、都からきた鉄砲隊に、みんな撃ち殺される!」

声の限り叫んだ。

危急を知った一族たち鳥人の群れは、みんな悲鳴をあげながら、羽音も高く、舞いあがった。

何羽(人)かは、そのとき、空を飛んでいたが、みなと合流して、逃げようとした。総数は三十であった。

ところが、早くも鉄砲隊の先鋒が、この集落に足を踏み入れていて、この空の一団に対して、銃身を向けた。ダダーン、ダダーンと、不気味な銃声があたりにこだまする。 まだ生まれたばかりで、やっと飛べるようになった幼い半人半鳥が、いちばん低いところを飛んでいたので、そのタマに当たり、白い翼を血に染めて落下した。 しかし、他の二十八人(羽)は、必死に翼を動かして、高く高く舞いあがった。もう、鉄砲隊がどんなに鉄砲を撃っても、タマはとどかなかった。

それっきりで、この鳥人の一団はもう二度と、この下総の森に舞い下りてこなかった。みんなどこへともなく、飛び去ってしまったのである。アフリカの方まで逃げていってしまった、ともいわれている。

下総の台地に、三墓の墓石が並んでいる。一墓はお綾(綾姫)のもので、他の二墓は、このとき撃たれた幼い半人半鳥のものである、といわれているが、それがどこにあるのか、筆者は知らない。

佐倉城址は、佐倉市の鹿島台にあり、ここには、昭和五十八年三月、国立歴史民族博物館がオープンして、一日数千人もの見学者が訪れている。京成電鉄佐倉駅の近くである。

<府馬 清>


船橋伝説「七経塚と弁天の大蛇」

船橋はアメージングな土地柄で、さまざまな伝説があるんですね。

これは、僕のクライアントから聴いた話です。

なんと、日蓮上人と大蛇の伝説です。

クライアントから、この伝説に関する著作をかりたので、まるごと引用させて頂きます。


船橋の伝説

「七経塚と弁天の大蛇」

これは船橋市と市川にまたがる話である。

今から700年あまり昔のこと、中山の堂で日蓮上人が百日説法をなさった。とうとい話だというので、近隣の村はもちろん、遠方からもたくさんの人が聞きに通った。

そのなかに、田舎ではまれな、まっ白な肌をし、黒髪を結い上げたまことに美しい娘がまじっていた。付近では見かけたことのない娘なので、人々はどこの娘だろうとうわさし合っていた。娘は百日の間一日も休まずに通い、最後の日に上人に厚くお礼をいった。しかし、上人は法力で、娘から立ち上る「気」を感じて、その正体を見破った。なんと娘は古作の弁天様の池に住む大蛇だったのである。大蛇はその正体を現し、その瞬間、あたりには黒雲が立ちこめ、激しい風も吹き出した。人々が驚いて後を追うと、大蛇は七枚の鱗を次々と落としてにげていった。その鱗の跡が、市川市若宮の畑の中に残る七経塚だという。

ところが、この話には別説もある。

娘の正体は市川市北方の旧称千束の池に住む白蛇だという話である。

娘は説法の最後の日、上人にお礼を述べ、経巻と法名を下さいと願ったのだが、正体を見破られ、花瓶の水をかけられて蛇身を現すと、八巻のお経を奪って逃げ、途中次々と七巻のお経を落として、千束の池に逃げ込んだというもので、七経塚はその時の跡だと伝える。

お経の最後の一巻は池のかたわらの桜の木にかかっていたという。

後に日蓮上人は、その蛇を弟子の1人に加え、「妙正」の法名を与えたので、やがて池の上の地に妙正寺という尼寺が建てられ、桜の霊場として知られるようになったという。

綿貫啓一著「船橋歴史風土記」崙書房より抜粋


このお話に出てくる史跡を訪ねてきました。

全て実在しています。

本当にあるから驚きです。

それにしても、面白いです。

興味が尽きません。

文中に登場する古作の弁天様(古作町南公園)

鳥居の奥にある弁天様の祠です。

大蛇の住いとされる池の跡。コンクリートで固めてありました

古作町南公園 〒273-0037 千葉県船橋市古作4丁目9

妙正寺〒272-0811 千葉県市川市北方町4-2122

白蛇が逃げ込んだとされる妙正池です